追憶のメサイア

クトゥルフ神話TRPG
SIDE:夜兎佳月
オリジナルストーリー

『追憶のメサイア』
作者:時生時雨








緑を深めた青葉が、空から零れる雫に濡れる。
9月26日。
その日、俺の中の何かが欠けた。

*********

「南方先生ってさ。大切な何か…例えば、大事な人を失った事ってある?」
突然の問いかけに、僕は顔を上げる。
声の主は、ベッドに横たわっている人物。
僕が担当している青年――夜兎佳月だ。
「随分と急ですね。どうしたんですか?」
「別に。気まぐれだよ」
ふい、と無愛想にそっぽを向く。
彼は持病の悪化が原因で二ヶ月前から此処で入院しているのだ。
何故怪我をしている患者を精神科医、さらには駆け出しである僕が診ているのか。
事の発端は二ヶ月前に遡る。
これまで何の異常も無かった夜兎が、ふいにぼーっとするようになったらしいのだ。
原因はわからず、精神科医がカウンセリングを行ってみても何も語らずじまい。
そんな時、偶然同じ大学生である僕が実習生として病院に来ていた。
というわけで、年も近い僕が話し相手になった方が良いだろう、と判断されたわけだ。
「大事な人…ですか。そうですね。失った事はありませんよ」
「…そうだよね」
「でも、無くしたことはありませんが、傷つけられたことならあります」
僕が続けたその言葉に反応するように、夜兎はふと顔を上げる。
「傷つけられた……?」
「ええ。恐怖以外の何者でもありませんでした。今まで当たり前のように側にいた人を、急に奪われるかのような感覚でした。もう二度と会えないかもしれない、そんな現実がのしかかってきた時、僕は初めてその人がかえがえのない存在になっていた事を思い知らされたのです」
「…そっか」
「………」
「………」
…沈黙が痛い!
気まずい空気を作ってしまった、と僕は後悔する。
何か、何か別の話題を―。
「俺、きっと何か取り返しのつかない事をしたんだと思う」
話題を変えようと僕が口を開きかけた時、夜兎がぽつりと静かに呟いた。
「気づいた時には手遅れだった。何か、大切なものを失った気がして。でも、思い出せないんだ。それが何だったのかさえも。けど、初めから無かったはずはない。たしかにここに、俺の側に、在ったはずなんだ」
夜兎は静かに、ぽつぽつと呟き続ける。
まるで、壊れてしまったピースを、大切に、一つ一つ確かめてかき集めるように。
「ねえ、南方先生。俺、どうしちゃったんだろう。絶対に失くしちゃいけなかったはずなのに。でもそれが何かさえもわからない。何も、わからないんだよ……」
シーツを掴む手に力を込める。
まるでその忘却を。記憶を。自分自身を責めるかのように。
「……思い出さない方が幸せな事もありますよ」
夜兎の震える肩に、僕はそっと手を置く。
「夜兎さん。その何かが大切だというならば。記憶に無くても、たしかに存在したと信じるならば。どうか思い出さないで。けれど大切な何かが在ったという事実だけは、忘れないであげてください」
「南方…先生?」
顔を上げた夜兎の目を見据え、僕は続ける。
「記憶に残っていれば、それはその人の中で在り続けられるものですから。それに、いつかきっと―」
「…先生」
「あ…っ、すみませんでした」
つい独りよがりに喋りすぎてしまった事に気づき、僕は慌てて口を噤む。
「…思い出さないで、けど忘れないで―か」
何かを考えるように一点を見つめた後、夜兎はふっと口元を緩める。
「流石精神科医だね。僕と同じ大学生とは思えないや」
「とんでもないです。まだ駆け出しですよ」
「きっと、良い精神科医になるんだろうなって思うよ」
「…っ、ありがとうございます」
夜兎の真っ直ぐな言葉が照れくさくて、僕は視線を逸らした。
「うーん。なんだか少しだけ吹っ切れたかもな」
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、夜兎は大きく伸びをする。
「また来てよ。今の実習が終わってもさ。俺、南方先生には何でも話せちゃいそうな気がするんだ」
「ええ。機会があれば」
眼鏡をくい、と掛け直し、僕は優しく微笑んだ。


**************


―思い出さないほうが幸せなこともある。
僕は彼の大切なものが何か薄々分かっていた。
「それ」は僕が知らないもの。或いは僕自身の記憶からも抜け落ちているのか、それは定かではないが。
消息不明、記憶も無い。されど何かが欠けた気はしている。
かつての僕なら、事故による記憶障害を疑っていたかもしれない。
あの事件に巻き込まる前の僕ならば。
(…この世界には、どうも僕の知らない事がたくさんあるようですからね)
この世界には、静かな狂気が身を潜めている。
彼―或いは彼の「大切なもの」もまた、その狂った世界の被害者なのかもしれない。
「…まあ、ただの推測にすぎませんけど」
助けてあげたいのは山々だが、所詮僕は一介の精神科医。出来る事にも限界はあるのが現実だ。
白衣を翻し、夜兎の病室を後にする。

窓枠の中、濡れた紅葉が朝日を映して輝いていた――。